『漢字文化とコンピュータ』

2016-08-19 當山日出夫


本棚から、本を取り出してきて眺めている。まず、取り出してきたのは、


伊藤英俊.『漢字文化とコンピュータ』(中公PC新書).中央公論社.1996


もういまでは絶版の本である。おそらく、コンピュータにおける文字の問題をあつかった、専門的な、それでいて、入門的な本としては、初期のものにはいるかと思う。1996年の刊行といえば、Windows95の翌年ということになる。

ざっとながめなおしてみての感想としては、二つ。今回は、特に仮名についてどのような記述があるか、どのような発想でみているか、この点に着目して、見ることにした。

第一に、コンピュータで文字をあつかうということの議論の出発点の確認になる本であるということ。もちろん、今の、コンピュータの状況からすれば、かなり古くなっていることはいなめない。

しかし、それでも、「JIS漢字コードは字体を規定していない」などの、今においても通じる問題点がしめされている。

第二に、やはり問題になっているのは漢字であるということ。ここで私が、とりあつかおうとしている仮名のことについては、基本的にふれられていない。非漢字ということで概括してのあつかいになっている。これは、仮名とコンピュータということが、さほど問題にならなかったことの、ある意味での証拠かもしれないと思う。

以上の二点が、ざっとではあるが目をとおしなおしてみての感想である。


この本『漢字文化とコンピュータ』が書かれたということ、それ自体が、漢字とコンピュータが、社会の問題になっていたことの証左でもある。いいかえるならば、仮名は問題にはならなかった、といってもよいであろうか。あるいは、仮名というのは、現代仮名遣い、それから、歴史的仮名遣い、そして、外来語の表記、これに使用できるものであるならば、それでなんら問題はなかった、といえるかもしれない。

これは、私自身の経験としてそうである。情報処理学会CH研究会などで、漢字とコンピュータのことについては、いくつか発表して、いろいろ考えてみたりしたことがある。しかし、仮名のことは、あまりというか、ほとんど考えたことがなかった。それだけ、仮名というのは、自明な文字であったのである。

ここで、今になって考えてみるべきことは、仮名の問題がなぜそれほどまでに自明なものとしてとらえられてきたのか、ということになるのかもしれない。そして、それを、いまの時点で、あらためて、仮名とコンピュータというテーマで考え直してみるとき、仮名というのは、はたしてそれほど自明なものであったのであろうか、という反省を呼び起こすことになる。