電子出版における文字:文字だけでは表現できない「なにか」

2009/02/17 當山日出夫

もろさんのコメントに答えてということもあり、また、『内村鑑三全集』デジタル版について、両方にかかわること。

均一に並んだ文字(活字)だけによって、文章表現(言語の表記)がなりたつ、これは、今では当たり前のように思っている。しかし、言語の表記、全体の流れのなかで見れば、これもまた、一つの、「視覚的効果」をふくんでいる。

内村鑑三にかぎらず、明治期以降の活字組版の出版物については、おそらく二つの異なる方向性がある。

第一に、純粋に、活字を均一にならべること。これは、漢文であれば容易であり、表記においても、おこなわれてきた。例えば、唐代の宮廷写経、一行十七字で、均一に文字がならぶ。
しかし、これは、日本語の漢字仮名(平仮名)のまざった文においては、難しい。もともと均一ではない「仮名」を、均一サイズの「漢字」と違和感なく、デザインして組版する。この方向での工夫と苦労。一般には、この方向での近代活字印刷史が語られるように思う。

第二に、逆に、均一なサイズで組まれてしまった日本語文(漢字・仮名)に、なんらかの視覚的効果をプラスしようというもの。その代表が、圏点、である。『内村鑑三全集』を見ると、本行があって、右側にルビ、左側に圏点、という事例がある。こんな難しい組版は、いったいどうやって達成したのかと思う。

実際の言語の表記というのは、連続した符号化可能な文字概念のならび、だけではない「なにか」がある。その「なにか」を追求する文字論があってよい。だからといって、私としては、「書記言語」に、いきなり飛躍するのは、ややためらいがある。当面は、「言語の表記」という立場で考えて行きたい。

ここで『内村鑑三全集』デジタル版についていえば、検索可能なプレーンテキスト(デジタル)を見ていただけでは、内村鑑三の文章を読んだことにはならないことが、実感される。この意味で、書籍版『全集』を再現した、PDFの存在は、非常に貴重である。だが、それを、どう利活用するかは難しい。

當山日出夫(とうやまひでお)

付記
誤記を一部訂正 2009/02/18