『中央公論』大学の絶望(つづき)

2009/01/29 當山日出夫

中央公論』2009年2月号「大学の絶望」のつづき。

はっきりいって、特に目新しいことは書いていない。まあ、『中央公論』が特集を組むぐらいだから、すでに、論点は出尽くしているテーマといえば、それまで。

だが、そうはいっても、共感する箇所がいつくかはある。特に次のところ、

対談:下流化した学問は復活するか、での、鷲田清一の発言、

教養というのは、いろいろな定義が可能だと思いますが、結局、「価値の遠近感を持つ」ことと言えるのではないかと思います。「教養を得る」とは、知識を得るそのことではなくて、その知識が全体の中でどこに位置するものなのかマッピングできる力を持つということ。(pp.50-51)

この視点からは、開架式の図書館で本をさがすこと、オンラインではなく冊子体のシラバス(抜粋でよい)を配布すること、このあたりを、実践的におこなえるかどうか、であろう。簡単なことかもしれない。だが、自分が、今、勉強していることが、大学の研究・教育の全体のなかで、どのような位置にあるのか、また、その隣接領域ではどんな研究がおこなわれているのか、知るためには、確実な方法である。

しかし、一方で、このようなマッピング能力をうばってしまうのが、デジタルでもある(その典型が、Google)。そして、これを視野に入れたうえで、デジタル人文学を考えなければならない。

このあたり、自覚的であるのは、石田英敬「瀕死の「人文知」の再生のために」の次のところ、

(大学院について)教師にとっても学生にとっても、「教養」はここでは、「学部」とは違った「役割」を求められる。自身のよってたつ知識体系の「条理」に自覚的になること、他の分野との境界にあってそれを「相対化」しうる「視点」を持つこと。(p.58)

デジタルによる人文学の再構築は、本当に可能であるか。これは、東大(石田さんは、東大情報学環の先生)だけが、頑張ってもどうにもなるものではない。もうすこしすそのを広げて考えることかな、とは思う。

當山日出夫(とうやまひでお)