『中央公論』2月号「大学の絶望」

2009/01/28 當山日出夫

雑誌『中央公論』の、2009年2月号の特集が「大学の絶望」。とりあえず、読んだ印象をのべるならば、まさに「絶望」しか、伝わってこない。我が家には、二人、大学生の子供がいる。その目で読んでみても、希望は見いだせない。個人的には、無事に卒業してくれればいい。大学で何を学べと、期待する気にはなれない。社会人としての、基本的マナーぐらいは、身につけてくれればと、思うぐらい。(まあ、たいていこんなもんだろう)。

このあたりの関係は、大学にさほど期待しているわけでもない学生とその親、そして、広報には関心がなく、また、学生の減少と予算の削減で嘆くだけの大学と、ニワトリとタマゴのよう、かもしれない。

掲載の論文は以下のとおり、

竹内洋鷲田清一(対談)「下流化した学問は復活するか」
石田英敬「瀕死の「人文知」の再生のために−教養崩壊と情報革命の現場から−」
鷲田小彌太「大学教授に冬来る、か? 〈少子化と制度革命がもたらしたもの〉」
竹内薫「亡びゆく日本の理工教育 〈若手研究者を格差が襲う〉」
・石渡嶺司「広報戦略なき大学に未来なし 〈情報発信力の差がサバイバルの明暗を分ける〉」

はっきり言って、読んで何の新鮮みもない。もう、これまでに、さんざんいろんなところで語られてきたことばかり。強いてあげれば、大学の広報のあり方への問題提起ぐらいだろうか。

常識的には、現在どのような問題点があるか分析が適切であるならば、それへの対応策は、おのずから生まれるものである。絶望感だけが残り、なんら有効な対応策が実行できないでいる、これは、おそらく、現状の問題の分析が間違っているから、としかいいようがない。

この意味では、たまたまであるが、「時評2009」として、内田樹が書いていることが、きわめてまともな議論に思える。ただ、対象は、大学の危機ではなく、今の経済状況(百年に一度といわれる)である。

これまで、教育に危機がなかった時代があったであろうか。少なくとも、近代このかた。制度的な問題もあれば、ひとびとの価値観の問題もある。教育において語れば……教育にコストをかける価値がある、その価値観の継承は、教育という実践にコストを投入し続けることによってしか、続かない。

うまくことばにできないが、とりあえず、ここまで。

當山日出夫(とうやまひでお)