デジタルで人文学はどうなるか

2009/01/25 當山日出夫

デジタルで人文学はどうなるか。最近の論考では、

石田英敬.「瀕死の「人文知」の再生のために−教養崩壊と情報革命の現場から」.『中央公論』(2009年2月号).中央公論新社

がある。デジタルで、はたして、人文学・人文知は、再生可能であろうか。私の答えは「否」である。「滅亡」はしないだろう、しかし、大きな「変容」はあり得る。

やまもも書斎記の方に、「デジタルネイティブ」について書いた。

NHKが本を出したので、それについてふれた、
デジタルネイティブ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/01/25/4080447

そのもとの番組が、「はてな」で流れたので、その時点で書いたもの、
デジタルネイティヴな人文学は生まれるだろうか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/11/09/3899323

※「ネイティブ」「ネイティヴ」の表記がゆれているが、これは、もとのまま。

私の認識では、人文学の知は、その教授法とともにある。教授法そののもが知であるといってもよいかもしれない。

唯一、今、この瞬間、自分と先生が、ここにいること……同じ時間を共有していること……この絶対的な感覚なくして、人文学の知はありえない。すくなくとも、旧来の人文学知は、この感覚のもとにあった。先生がその先生から習ったことを、学生につたえる。知の伝授。述べて作らず。

これが極端な言い方であるとしても、研究方法の教授は、実践的になされてきたものである。「君、この本を読んでごらん」この一言につきる。そして、目の前にいる、先生の沈黙の時間……この沈黙の意味が理解できないで、人文学知はあり得ない。

人間の一日(24時間)のリソースをどう使うか。そのなかで、デジタル技術は、唯一の絶対性を持ちうるだろうか。今、目の前にいる人(先生)が沈黙して、私の答えるのを待っている、この経験を、デジタルで得られるか。

確かに「デジタルネイティブ」な若者達が生まれてきていることは認めよう。だが、その「デジタル」によって、旧来の人文知が大きな変容・変貌を余儀なくされるであろうことも、確かだと思う。

教授法が変わったとき、その知も変わる。自分がかつて習ったときのように学生を教えることはできない、この自覚、覚悟、あるいは、「あきらめ」のもとにしか、次世代のデジタル人文学は成立し得ないだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)