『中央公論』大学の絶望:昔はよかったのか(つづき)

2009/01/31 當山日出夫

確かに、今の大学、特に人文学的な基礎教養というべきもの、それから、いわゆる「PD」の問題など、危機的状況にあることは認めよう。だが、それを危機と感じるのは、これまでの教育制度のなかで、生き延びてきた、あるいは、あえていえば勝ち抜いてきた人の視点にたってのことかもしれない。

中央公論』の特集に書いている人の肩書きだけを列挙するならば、

関西大学教授/京都大学名誉教授
大阪大学総長
東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授
札幌大学教授
・科学作家
・大学ジャーナリスト

ところで、教育関係の本を読んで、感じてきたことがいくつかある。これは、「ゆとり教育」の時代の中学生・高校生の子供を持つ、親の立場から、ではあるが。それは、初等・中等教育の問題を論じることと、高等教育を論じることとが、うまくつながっていない、ということである。

きわめて単純にいえば、主な論点は、「学力低下」であるとしても、
中等教育(中学・高校)の問題を論じる場合は、「ゆとり教育」における学力低下を問題にする
・高等教育(大学・大学院以上)を論じる場合は、「大学全入時代」における学力低下を問題にする
そして、これらを総合的に論じた論考というのは、あまり読んだ記憶がない。

さて、いずれの立場にせよ、基本的に通底するのは、「昔はよかった」という感慨であるかと思う。はたして、そうだろうか。

例えば、「学校」を舞台にした、「名作」といわれるもの、

「やまびこ学校」について。これについては、佐野眞一の『遠い「山びこ」−無着成恭と教え子たちの四十年−』(新潮文庫、オリジナルは、1992年、文藝春秋)。

二十四の瞳』(壺井栄

など。これらを読んで、はたして、「昔の学校制度はよかった」と言えるであろうか。個人的に、強いてあげるなら、北杜夫の『どくとるマンボウ青春期』ぐらいであろうか。これは、旧制の高等学校教養主義への追懐の書である。

だが、『どくとるマンボウ青春期』の時代は、同時に、『やまびこ学校』や『二十四の瞳』から読み取れるように、義務教育でさえ、まともに受けることのできない、子供達がいた、この事実は、まぎれもないことであろう。

このような時代を懐かしんで、はたして、未来の教育が語れるのか。本当に、昔はよかったのか、あえて、さらなる問いかけが必要あると、私は、考える。

當山日出夫(とうやまひでお)