学者バカとしての「白川静」

2009/02/01 當山日出夫

中央公論』大学の絶望、のつづき。p.47につぎようにある、(鷲田清一の発言として)

先輩達からは、みじめな将来しか見えてこない。教授は教授で、資金を取りにいく書類ばかり書いている。まるで営業マンで、「学者バカ」みたいな人はほとんどいない。楽しいことをやっているようにちっとも見えない。

私が、大学のときにならって、いまでも本当の意味で「先生」と呼ぶのは、「学者バカ」としか言いようがない。(特に、固有名詞はあげないでおくが)。

ところで、今、「白川静」がブームである。あえて、「 」つきで、表記する。ともあれ、次の本は、かなり売れているらしい。

松岡正剛.『白川静−漢字の世界観−』(平凡社新書).平凡社.2008

しかし、だからといって、甲骨文字の研究に、どっと若い人たちが注目しているかといえば、そうではなさそうである。

おそらく、「学者バカ」の人生を送った数少ない一人として、その代表的な人物として、多くの人が魅力を感じているのだろう。「白川静」に人気があつまるということは、逆に、今の日本の大学・研究者に、魅力がない、ということなのかもしれない。

そして、問題になるのは、ひたすら勉強にうちこんでいる「学者バカ」の先生の生き方に、魅力を感じる若い人たちが、どれほどいるか、ということ。「デジタルネイティブ」と称される若いひとたち(私は、この考えに全面的に賛成ではないが)にとって、「学者バカ」の先生は、どのように見えているのだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)