文字を手で書くこと

2009/03/18 當山日出夫

偶然であろうが、松田清さんが、「写す文化」として書いている。

松田清のtonsa日記
http://d.hatena.ne.jp/tonsa/20090318/1237340540

蘭学に限らず、漢学にせよ、国学にせよ、「写本」の重要性は、認識しておくべきである。近世になって版本の時代になりました、で終わりではない。近世になってからも、連綿と、書写・写本の歴史はある。いや、明治以降になっても。

文字を手で書くこと、文章を声に出して読んでみること。このことが、まず、教育の基本。これは、今も昔も変わらないはずである。

文字に話しを限定すると、手で書く(写本)するからこそ、美しく書こうとする努力も生まれる、と同時に、楽に書こうともする。そこから、略字などが生まれてくる。

印刷の本と、手書き文字の間を、行ったり来たりできる、このことが根底にあるべき……という認識は、ある意味で終わってしまったのかもしれない。(どうも、昨今の、文字をめぐる議論を見ていると、このように感じる。)

漢字について考えるとき、文字を手で書くこと、このことをまず考えないといけないと思う。手で書くからこそ、覚えれれる漢字の範囲もおのずと決まる。また、漢字のかたちも、(いうまでもないが)手書きの字体になる。

文字は手で書くものである、というところに、当用漢字(せいぜい、常用漢字)までの、日本語の言語政策はあった。そこに、時代の流れだからと言って、デジタル文字をもってきても、木に竹を接ぐようなものにしかならない。

常用漢字の字体についても、いろいろ議論はあるだろう。その一つの考え方として、明朝体で示された字(字体)を手書きにしてしてみて、有意な区別が必然的に有りうるかどうか、考えてみるべきだと、私は考える。

手で書く字と、デジタルの字、発想の根本から考えて見る必要を感じる。

當山日出夫(とうやまひでお)