何についてのパブリックコメントなのか

2009/05/03 當山日出夫

小形さんの「もじのなまえ」の方で、少し紛糾しているようである。整理のためと思って、こちらに私の意見を書く。

もじのなまえ
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090428/p1

そもそもパブリックコメントの対象は、何であるのか。

(1)文化庁から、「試案」として配付されたもの。これは、細かな字体は次の段階で議論するとしても、字種や、基本的な考え方については、記してある。

(2)文化庁は、これまでの議事録や資料も、(全部ではないが)公開している。また、委員会の傍聴も許可している。最終的な「試案」が決まるまでの経緯については、ある程度の流れが把握できる。

では、何についてコメントすべきか。狭義には(1)である。だが、その妥当性を論ずるには、(2)の制定プロセスの観察が欠かせない。頻度調査の方法の妥当性、あるいは、そこに政治的判断を加えるのか(都道府県名漢字など)、これは、配付された「試案」だけからは、判断できない。

くしくも今日は憲法記念日。いまある、すでに決まっているものが十分であれば、それでよい、という立場もある。いや、それはそうとしても、その制定のプロセスこそが、重要なのである。民主国家の憲法は、やはり、民主的な手続きによって制定されなければならない。GHQによる、強引な、英語版からの翻訳をそのままつかう、であってはならない。このような主張も、片方である。

いろんな立場がある。

私は、民主国家においては、その制定のプロセスが重要だと思っている。したがって、「新常用漢字表(仮称)」がどのようにして決まったのか、調査方法や資料は妥当であったのか、それに対して、ひとびとはどのようにおもっていたのか、これは、記録として残し、後世の検証に耐えるものでなければならない。

この意味では、小形さんが、御自身の考え方を表明なさったことは、尊重されるべきである。それが、仮に、委員会に対して影響をもたないような記載であったとしても、それらをふくめて、「のこす」必要がある。

さまざまな意見を「のこす」そして、それを次回の議論のときに資料(史料)としてつかえるようにしておく、これもまた、パブリックコメントの意義であると私は考える。

當山日出夫(とうやまひでお)