「鬱」と「碍」

2009-07-28 當山日出夫

小熊さん、いつもありがとうございます。さっそく、ダウンロードして、ざっと目をとおしました。

「鬱」という字があるからといって、かならず、漢字で書くときは「鬱」をつかわなければならない、ということはない。このことは、委員会で確認されていることだと、私は理解します。また、この考え方についても、同感です。

であるならば、「碍」という字があっても、絶対にその字をつかわなければならないわけではない。「障碍」「障害」「障がい」「しょうがい」、種々の書き方が許容される。

ならば、「碍」が入ってもかまわないではないか、と思えます。

ただ、問題は、どういうプロセスで、その字を「新常用漢字表(仮称)」に入れることにしたのか、整合性があるようにしたい、というレベルの議論に、すりかわってしまっているように思えます。ある団体が運動したら字が入る、ということは避けたい、ということでしょう。

そうではなく、日本語の語の表記として漢字を考えるべきである。私にいわせれば、こんなことは、当たり前のこと。それをささえる学問領域として、現在のコーパス言語学がある。この成果を利用しないで、字を選定しようという方が、基本的におかしい。

このことは、何度も主張してきたことです。漢字だけの頻度調査から、漢字のことは分からない、と。いまさら、こんなレベルのことを、委員会で発言してほしくない、というのが、日本語研究者のはしくれとしての、率直な思いでもあります。

で、「しょうがい」ですが、社会福祉や人権にかかわる用語・漢字については、特段の配慮があってしかるべきでしょう。本来、「しょうがい」が無くなることがのぞましいのは、いうまでもない。だが、それは今すぐには無理。であるならば、せめて、「碍」の字を使うことを、より自由にするぐらいのことはあってよい。

文字が変わること、文字について議論することが、社会における「しょうがい」についての意識を変える、ひとつのきっかけ(ちいさなものかもしれないが)になる。このことの意義ぐらいは考えて欲しい。

當山日出夫(とうやまひでお)