『群像』12月号:活版印刷の記憶

2009-11-16 當山日出夫

日本の活版印刷の歴史、たかだか1世紀半ほどのものである。それを、「日本語」と「書物」と「表記」の全体にわたる問題として、そんなに、とりざたするほどのことなのであろうか。と、いうのが、いつわらざる印象である。

雑誌『群像』2009年12月号は、「特集:活版印刷の記憶」とある。が、表紙には記載がない。なかの目次にはある。掲載の文章は、二つだけ。

「言葉をいとおしむ」松浦寿輝
活版印刷の終着駅を前に」市川真人

この二つだけ。私の感想としては、要するに、むかしながらに職人さんが手作業で文選・植字してつくった本はよかった、今のデジタル化した文字はダメだという感傷の文章としか読めない。

そんなに手作業の文字がいいなら、自分で版下原稿を書いて、それをオフセットにでもしたらどうですか……と、ついつい言ってみたくもなる。近代になって活版印刷がはじまるまで、製版本の版下は手書きであったし、また、写本もおこなわれてきている。文字と書物について、身体的に密接に結びついたものをもとめるならば、まず、写本からとりあげるべきだろう。手作業による文字の身体性にそんなにこだわるなら、自分で写本をつくればいい。文字を自分の手で書けばいいだけのことである。

活版印刷をどうとらえるか、視点はいろいろあるが……まずは、文字を文字単独できりはなすこと、にある。文章から文字が独立する。その結果としての、機械化・工業化としての、印刷の技術である。最終的に、コンピュータ組版になることに、なんの不思議があろうか。

とはいえ、私とて、活版印刷に、ある種のなつかしさを感じることに、いくぶんの共感がないではない。しかし、そんなものは、エネルギー効率を無視して、蒸気機関車をありがたがるに似ている。

逆に、活版であろうと、オフセットであろうと、人間が目で読む文字のもつ身体性というものは、厳然として存在する。その有り様が、時代と技術によって変遷するだけである。活版の文字への愛着を語るだけで、新しいコンピュータ文字のタイポグラフィの美しさには目をむけようとしない、これを偏見といったら言い過ぎであろうか。

職人さんの手による活版文字、これへの哀惜はいいとしても、それよりも以前からの版本・写本の歴史、そして、現在のコンピュータ文字デザイン、これを視野に入れない議論は、単なる感傷でしかない。何も生み出さない。ま、文芸誌だから、これでいいのかもしれないが。

當山日出夫(とうやまひでお)