漢字で書かなければいけないという呪縛

2009/06/03 當山日出夫

おがたさんの「もじのなまえ」 "鬱”を追加しないでください
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090602/p2

「鬱」をつかう例としては、「憂鬱」「鬱血」「鬱蒼」それに「鬱病」ぐらいであろうか。漢字を、パーツの組み合わせとして見た場合、「鬱」の字は、そう難しいという字ではない(と、思う)。しかし、全体としての画数が多くなり、一瞬の見た目の印象としては、「難しい漢字」。

だが、問題は、そもそも「漢字で書かなければならない」という、意識のありようにあるのかもしれない。この延長上に、「交ぜ書きは美しくない」という考え方もある。

「漢字」にのみこだわることなく。日本語の「ことばの表記」としてみれば、ある「語」の書き方として、交ぜ書きがあっても、かまわないではないか。さらに、「ゆううつ」でも「ユーウツ」でもいい。現在、「うつ病」は普通の表記になっている。

漢字の字種が増えれば、交ぜ書きはなくせる。しかし、その逆の方向で、ある一定の閾値より少なくなれば、むしろ「交ぜ書き」が普通になる。たぶん、これは、どこかのある地点で、意識がふっきれる(はずである)。

将来を展望するならば、「漢字」は、あくまでも「日本語」という言語の表記のためにある。そして、どのような人たちが将来の日本語をつかうのか、この視点が重要であると考える。(このあたり、野村さんの『漢字の未来』で書いてあることに近い。)

とはいいながら、上記を読み直して、「閾値」は、今のところ、この漢字でかくしかないという気もしてしまう。論旨からすれば、「いきち」「いき値」でも、かまわない。ただ、書いているATOK2009では、「いきち」からは「閾値」しか変換しなかった。「いき値」は出ない。「しょうがい」から「障がい」はでるのだが。また、「いきち」とあっても、文脈上「生き血」と誤解するはずもない。さららに考えて見ると、「生き血」を「いきち」と書いたのでは、なんとなく感覚が違う。やはり、ドラキュラが吸うのは「生き血」でなければ、雰囲気が出ない(ように、私は感じる)。

漢字は、「ことばの表記」なのである。まずは、意識的に「漢字」から離れてみることもあっていいだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)