「碍」を入れない理由をのこす

2009-08-20 當山日出夫

「しょうがい」をどう書くか。障害・障碍・障がい。これを、誰が、どのようによって、決めることになるのか、このこと自体を考えなければならないと思う。

結果的には、「碍」の新常用漢字表(仮称)への追加は、なくなった。

ここでは、この結果のみを見るのではなく、どのような手続きのもとに、「碍」の字を入れないことにしたのか、その判断について考える必要がある、まず、このことが理解されているかどうか。

少なくとも、委員会の議事録は残るだろう。この残った議事録を読んで、後世のひとたちは、どのように思うだろうか。

残念ながら結果的には「碍」は、はいらない。これは、やむを得ず甘受することとしよう。だが、「碍」の字をめぐって、どのように議論されたか、これは、今こそ、記録として残し、史料としなければならない。この責務はある。「碍」をいれないと決まった段階で、おわったわけではない。

「碍」についてのパブリックコメントのオリジナルは、記録保存されるだろうか。これは、今の日本の社会のひとびとが「しょうがい」ということについて、どのように考えていたか、後世のひとびとが判断するための、貴重な史料となるはずのものである。

場合によると、それさえも残さなかった新常用漢字表の委員会、ということになる。この最も愚かな判断だけは、さけてほしいものである。


参考:やまもも書斎記 アーカイブズから学ぶもの(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/05/02/4282741


くりかえし書く。新常用漢字表。字種の選定は、とりあえずの決着をみたという段階かもしれない(おそらくは)。だが、これで、終わりではない。どのような資料により、どのように考えて、その字種を決めたのか、記録を残す責務が今後の課題として残っているのである。

この意味においては、豊田徳治郎さんのブログは、残さなければならないと思う。
http://d.hatena.ne.jp/tokujirou/


當山日出夫(とうやまひでお)