排泄について考える

昨日の朝日新聞(2009年10月23日、夕刊、大阪版)、『ニッポン人脈記』第1回。今回のシリーズのテーマは「排泄と尊厳」。

南田陽子と長門裕之のものがたり。その最後の方、一部、引用する、

排泄は人間が生きる上で最も大切な生理現象だ。大手衛生用品メーカーは昨年、500人以上の男女を対象に意識調査をした。「介護される立場になっても最低限自分でしたいことは?」の問いに9割以上が排泄と回答。「介護する側になった時に一番大変なことは」でも6割弱が排泄をあげた。

だが年を重ねたり病気をしたりしてうまくできなくなる時がくる。その切なさをいえずに苦しむ人の「声なき声」に耳を傾けたい。

いずれ、日本は、超高齢社会をむかえる。生老病死……「病」と「老」は、さけられない。そのなかの問題に、「排泄」がある。そして、その介護の現場をになう人を、いわゆる日本人だけではまかなえない、外国人介護士にたよらざるをえない社会にむかって、われわれはすすんでいる。

改訂常用漢字表(これからこう称することにしよう)が、既存の(あるいは、せいぜい今つかわれている日本語のデータにもとづいたとしても)、それだけでは、未来に対応できるか。実際に制定された漢字表をつかうのは、これから将来の人々である。

「排泄」ということばをどう書くべきか、「障碍」とどうむきあうか、「未来」に向けての姿勢が、要求されている。私は、こう思う。

なお「老」は「障碍」ではない。しかし、種々の社会福祉のシステム全体を考慮するならば(認知症などをかんがえると)、「老」と「障碍」にかかわる「ことば」をどうあつかうべきか。それを、その時になってから考えるのでは遅い。いまから、考える。いや、それが無理なら、考えるための準備をしておくべきだろう。

今回の改訂常用漢字表の審議において、「障碍」「排泄」などの文字を、どうあつかったか、議事録に残したか……これがアーカイブされれ、未来のひとたちにメッセージとして、あるいは、史料として、残る。

「障碍」「排泄」を、「まぜがき」にするのか、あるいは、改訂常用漢字表に認定するのか。また、日本語を母語としないひとを考慮して別語におきかえる道をえらぶか。いま、すでに、「声なき声」がある。そして、ちかい未来には、おおきな問題になると判断できる。

この覚悟をもってして、審議にのぞんでもらいたい、と切に希望する次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)