障碍:用語を変えると意識も変わる

2009-10-31 當山日出夫

まず、引用から。

日本の医療現場では「抑制」という医学用語がよく使われていた。簡単に言えばベッドに縛りつけることだ。ところが、これは非人間的だと考えた医師がいて、その医師はそれまで「抑制」と書かれていた看護日誌に「縛った」と書かせた。そうすると、看護師に大変な抵抗が出てきたのである。「抑制」と書くと医療行為の一つだと思えるが、「縛った」と書くと人間の自由を奪ったとしか思えなくなるのである。そこで、その病院ではベッドに患者を縛りつける行為が激減したという。

「抑制」と書こうと「縛った」と書こうと、行っていることは同じである。しかし言葉を換えることによって、自分が行っていることの意味が変わってしまったのだ。医療行為が自由を束縛する行為に変わってしまったのである。たった一語の変更で、そのことが自覚できたのである。

いや、言語論的転回以降の言語観にそってもっと厳密に言えば、「行っていることは同じ」ではない。「抑制」という行為と「縛った」という別々の行為があると考えるべきなのだ。(以下、略)

pp.44-45

石原千秋.『読者はどこにいるのか−書物の中の私たち−』(河出ブックス).河出書房新社.2009


さて、「障害」「障碍」「しょうがい」……これらは、狭義には「語の表記」の問題である。しかし、「語の表記」は、表現であることも確かである。

「障害」を「障碍」と、あるいは、「障がい」と書きかえても、それで障碍の問題が解決するのではないから……という理由で、「碍」の字を、改訂常用漢字表(案)に入れない、という主張をする人がいる。少なくとも、議事録では、そのように読める。

自分たちが、何を決めようとしているのか、この点を再度かんがえなおしてもらいたい。「障碍者」を「害」としてあつかう発想があるなら、もしも、そのような気持ちがあるかもしれないなら、それに気づこう、気づくようにしよう、ということに、どうして思いがいたらないのであろうか。

たしかに「碍」も、さまたげる、という意味の漢字である。しかし、「害」ではない。そして、「害」をつかいたくない人がいる。このような意見は多い。しかし、これに対して、逆に、絶対に「害」でなければと積極的に主張する人は、どれくらいか。

強いていえば、人間的な想像力の欠如、「ことば」についての感覚が麻痺している、と批判されてもしかたないであろう。

改訂常用漢字表がどのようになるか、それとは別に、このような人間的な感覚と想像力に欠けたひとたちによって、「国語施策」があつかあれているという、そのこと自体を、嘆かわしく思うのである。


當山日出夫(とうやまひでお)