ことばの唯一無二性についておもうこと

2009-09-22 當山日出夫


北村薫の「ベッキーさん」シリーズの最初の方にこのような記述がある。


主人公(わたし)が、運転手の別宮(ベッキーさん)に話しかける場面である。

ベッキーさん、お名前の《みつ子》の《みつ》の字はどう、書くの?」
「ひらがなでございます」
「漢字にしたら、どうなるのかしら。満ちる《満つ》か、《光》かも知れない。ああ――」
 と、朝の光の中で、動き始めている帝都を、車窓から眺めながら、
「《美しい都》かも知れないわね」
「さあ、どうでございましょう」
pp.54-55


さりげない会話であるが、昭和7年における東京を、《美しい都》と感じている主人公(わたし)の感性を表現した箇所でもある。


なお、余計なことかもしれないが、ベッキーさんは、別の箇所でこうも言っている。銀座のきれいな街路をはずれて、いまでいえば社会的に最下層のひとびとが住む家々に、「わたし」が思ったことについて、

「お嬢様――」
 とベッキーさんは、静かにいった。
「《あのような家に住む者に幸福はない》と思うのも、失礼ながら、ひとつの傲慢だと思います」
p.264


確認しておきたいが、これは、あくまでも昭和7年(五一五事件について記述があるので)の東京にすむ、士族ではあるが「女子学習院」に通っている「わたし」の感じ方を表現しているところである。


少なくとも、最初の引用の箇所においては、「みつ」と仮名で書くことへの、唯一無二性は、無い。それよりも、作品全体を通じて、「別宮」=「ベッキー」ということの方のつながりを強く感じさせる。


ここにあるのは、表記(みつ)の唯一無二性ではない。呼称(ベッキー)の唯一無二性である。私は、特に固有名詞における表記の唯一無二性を否定するつもりはない。が、それよりも、ひろい視点にたって、「ことば」としての唯一無二性がある。そして、その「ことば」の表記には、漢字もあれば仮名もある。


日本語としてどのような「ことば」をつかうか。そして、表記するときには、どのように書くのか。この方向から考えたい。漢字で書かれたとき、それは唯一無二性を持つかもしれない。だが、そのまえに一般的に「ことば」としての唯一無二性がある。このとき、「ことば」は、必ずしも音声言語に限定しない。


北村薫.『街の灯』(文春文庫).文藝春秋.2006


とりあえず、思ったことである。なお、私は、平民、だな。昔なら。
當山日出夫(とうやまひでお)