障碍の表記の当事者はみんなである

2009-12-17 當山日出夫

豊田徳治郎さんのことが、朝日新聞に掲載になっていらい、そのブログが賑わいをみせている。まずは、議論をおこすこと、これが大事であると思う。

tokujirouの日記
http://d.hatena.ne.jp/tokujirou/20091201/1259622095

世の中には、この種の問題について、だまっていたい人もいるだろう。そのような人を無理に発言の場に出てもらうこともない。それはそれで、そっとしておいてあげるのがよい。しかし、発言しようと思った場合、きちんと言うべきことを言う、そして、言えるようになってきた、また、そのツール(ブログなど)が整備されてきたことは、ひとつの進歩であろう。

ここで思うこと、「しょうがい」の表記の当事者は、いったい誰であるのか、という観点である。以下、私見を記すならば、それは、「みんな」である。

障碍(以下、この表記で書く)のあるひとも、そうでないひとも、同じにくらすような方向に、いまの日本の社会はむかおうとしている。また、何が障碍であるかも、そのおかれた状況によってかわってくる。一概に、障碍者、とそうでない人を明確に線をひくことはむずかしい。

障碍のあるひとが社会のなかでともに生活するとして、さて、困るのは、いったい誰なのか。障碍をもっているひとなのか。そうではない。みんなが困る問題なのである。

たとえば、耳のきこえない聴覚障碍のひとがいる。その人と、なにかでコミュニケーションしなければならなくなったとき、困るのは、双方である。決して、障碍のあるひとだけが、困るわけではない。(このようなとき、耳の聞こえない人間の方が問題だと、疎外するような態度は、私の好むところではない。)

以上のようなことを書くのは、障碍の表記をめぐっては、障碍者の当事者の意見を第一にという立場からの考えをよく目にするからである。たしかに、それは、そのとおり、当事者の意見が重要である。だが、このとき、考えるべきは、障碍の当事者とは、いったい誰であるのか、明確に線をひいて、障碍者をかこいこんでしまって、その人たちの意見ということでよいのか、ということである。

障碍の当事者の声を第一にと考えるならば、その次の考えるべきは、その当事者とは誰であるのか、ということであろう。そしては、それは、これからの日本社会のすすむべき方向としては、「みんな」である。そうでなければならないと考える。

したがって、障碍の「碍」の字を改定常用漢字表に入れる/入れないの問題について、耳をかたむけるべきは「みんな」である。いいかえるならば、障碍者をどのように考えているかが問われる。「われわれ全員」の問題なのである。

そして、このような基盤のうえで「碍」の字については議論されなければならない、と考える。

當山日出夫(とうやまひでお)